ヒトの環境はヒトがつくる
メールができたりメッセができたりskypeができたり、便利になればなるほど、ランダウを読んだりする時間が減るよなぁ(中断されない時間がないと…)。このまえ、そんな話をした。即答を求める文化がからむと、さらにひどくなる。
その点、ぴらぴらは幸せである。
メールができたりメッセができたりskypeができたり、便利になればなるほど、ランダウを読んだりする時間が減るよなぁ(中断されない時間がないと…)。このまえ、そんな話をした。即答を求める文化がからむと、さらにひどくなる。
その点、ぴらぴらは幸せである。
ネットワークの本とか、解析力学の本とか、史記とか、モリヒロシ(漢字が…)とか、よくわかんない哲学の本↓とか。
aがbを、bがFであるその故に愛しているとすれば、それはFである限りのb、Fであるという点で切り取られたbの姿を愛しているのである。…あるいはむしろこう言うべきかもしれない。aは結局、bについてなぞって作り上げた自分のイメージを愛している、と。そのイメージとは、自我すなわちおのれの我執の自己投影である。ここにはbその人自身への愛はない。…
…他人の死は、こうして、他者は断じてわたしの思い描いたイメージ、自己投影でなく、無限とも思える遠さの絶対他者であることを露わにしつつ、同時に、わたしのイメージ、わたしの自己投影の崩壊を告げている。…
…わたしはわたし自身の全体を知らない、そういう存在だったからである。そのいみで、自我がどんなに強固な自閉完結空間を作ろうとも、その底は割れている。愛はみずからその空間を開くことを命じている。不可測不可侵の絶対他者の存在を容認し、その存在のために最善を願望するしかたで、私がなぞり作ったイメージ、自己投影でない汝に我が空間を開き渡すのである。…愛はこうして不可測なるものにみずからを賭け、冒険に身を委ねるのである。…期待が満たされることもあれば、傷つけられることも裏切られることもありえよう。さらには愛する相手にわたしが何か知られるというまさにそのことも。…
そう。しかし、不可測なるものにみずからを賭けるのは、おそるおそるするべきことだと思う。賭けられる方も大変なのですね。
11月は、+0.86%。対象にしている銘柄が高騰していることを考えると、微妙だなぁ。株価が値下がりしているときでも稼げるのなら、こんな感じでもいいのかもしれないけれど。ま、僕がすることは月に一回結果を見るだけ。
工人舎のちっこいノートパソコンに、ヨドバシカメラで触ってみた。キーボードの感触が独特だけど、すぐに慣れそう。問題なのは、画面が小さいので上手に使わなくてはならないこと。それに、あれを買っちゃうと、ますます、どこに行ってもコンピュータばっかに触ってることになるなぁ。よく言えば、おさんぽとコンピュータいじりが好きなときに好きなだけできる、と。そういう人生選んでるのかもしれない。
今日の午前中にぼんやり考えていたこと。プログラムを書く速度が速いか遅いかは、流れを体感できるかどうかに直結する。流れを体感できるかどうかは、成長できるかどうかに直結する。囲碁もそうらしい。
シモンは小腹が空いたので、ふらっとカフェに入った。テラスに並ぶテーブルは、どれも磨きあげられていていた。彼の好きな街の灯が、さかさまに吸い込まれていく闇…自分の中のアペイロンのようだ、と彼はおもう。どうして、普通に夜空を見てもこんなではないのに、テーブルに映るとこんなふうなんだろう。
心の中にアペイロンを持てなくては、幾何学はできない。当時隆盛を極めていたヒゲトカゲ団の団員たちが、幾何学も記号列の変換に過ぎないと述べていた。しかし、シモンにヒゲトカゲ団の話をすると、必ず「彼らは幾何学のことを何も理解していない」と、不機嫌そうに答えた。
このとき彼は小腹は空いていたが不機嫌ではなかった。アペイロンとエプロンって似てるかも、と考えていた。語源はぜーんぜん違いそうだけど。
Rubyというプログラミング言語を練習しはじめた。ほんとに、触りはじめたばかりだが。
この言語そのものに魅力を感じるわけではなく、Rubyを作ったり使ったりしている人々の考えることが、いちいちおもしろいのが、気になった。こういうのは、街に人が集まるのと同じこと。
言語によって使う人の個性が違うのは、銀座を歩く人と秋葉原を歩くひとが違うようなことだと思う。その街にいると何にどれだけのコストでアクセスできるか、という街の性質が、そこに歩くひとを変える。秋葉原でTiffanyの指輪を買うのは面倒だし、銀座でオシロスコープを買おうとするのはたぶん筋違いだ。
CとかSchemeみたいな、古都の魅力も捨てがたい。にょにょん。