悟った
天地の造化に感謝である。
天地の造化に感謝である。
もともと慣性が大きいようで、放っておくといつまでも座ってぼんやりとしているし、眠っていると15時間くらい眠っているし、起きていると明け方まで眠らない。
しかしこのごろ動き回っている。動き回っている方がいろいろ思いつく。
わからないということが発覚するのは、ありがたいことである。自然には、人に言われてみないと、わからないということには気づかない。人に話すつもりで準備するときは、質問されてはじめてわからないと気づいてうろたえる様子を、想像してしまうので、わからないということに気づきやすい。
わからないところをよく愛でて、疑問をなるべく簡潔に言い切るようにつとめると、結局、単語ひとつの意味がわからないとか、なにがしたいかわからないとか、単純な疑問になる。単純な疑問にも落ちない場合は、もっと手前でわからなくなっていたはずなので、さかのぼる。
浅学非才ゆえに、わからないことばかりなので、愛玩する疑問には事欠かないが、見過ごしている疑問も多いはずだ。ぴらぴらは字面の整合性だけみて一人合点する傾向があるので、勘違いしやすいところは、まず間違いなく勘違いする。
くだらないことをたくさん聞いてしまった。五分の一でよかったはず。修行が足りない。
昨夜は帰るのが面倒で、大学で眠っていたら、起きたところ、本を返してもらっていたことに気づいた。
大学にあった用事は、Cliff Jones講演会。{pre}Hoare{post}ということで、Hoare論理以前以後。以前の話が興味深くて、Turingとかvon Neumannとか、やっぱりなんでもやっているのであった。しかし忘れられてしまうあたりがなんとも言えない。あとは、言えることを犠牲にして言語を限定してtractableにすることの価値。
“It is reasonable to hope that the relationship between computation and mathematical logic will be as fruitful in the next century as that between analysis and physics in the last.” というJ. MacCarthyの言葉を初めて知った。20世紀に言われたことなので、19世紀の物理に思いを馳せると、この調子でなんでもわかっちゃうんじゃないかというくらい調子にのっていたら、なぜか煮詰まってきたというイメージがある。ほんとかどうかは知らない。21世紀に、どう煮詰まることができるのか想像するのは楽しいことである。ちゃんと煮詰まることを目指して、わかりやすいところはちまちま進めていくのが肝要である。煮詰まったところで22世紀に送ればいいのであろう。
次に何をするのか、思いついたので、喜んで帰る。青山ブックセンターに寄って、へなへな歩いて帰る。
Martin J. Osborne and Ariel Rubinstein: A Cource in Game Theoryという本を読んでいる。へんたいなので真っ先に5章を見たら普通だった。4章を読んだら、rationalizabilityの定義はcoinductive (余帰納的?)で、strictly dominated eliminationの定義はinductiveで、まじめに書いたら一致するのは当たり前にみえるようになるはずだと思った。