インフルエンザ

哺乳類とか鳥類とか飼ってる人は、気をつかうんだろうな。実験がおじゃんになるかもしれないし、ヒトと行ったり来たりするほうが、変異しやすくなるだろうし。

ルネでだらだらしている

22時まで開いているし、適度に狭いし、すばらしい

統べるとき

  • 動的知識論理に不満だった
  • 知識論理のagent集合が固定なのも不満だった
  • プログラム抽出が、狭いところに閉じこもっているのも不安だった
  • 時間と知識の関係をもっとちゃんと見たかった

やりかけのいろいろ

  • 研究は、丸太の中から何かが登場しようとしているようなので、適当に彫ってお手伝いしている。
  • Gitを上手に使ってプログラムをかけるように。つまり、ひとつひとつのcommitが意味を持っているように、そして、関係ないものは、branchが切れているように、そういうふうに、してみたい。git rebase は、たのしい。

内包指向の罠

空の月も、池池に宿る月もあるのに、空の月ばかりをほんものとしているようですが、あなたはそれでやっていけるほどの器量ではないのではありませんか、ということを、今週はさまざまな事物に問われた。しかし、空の月を、手元でつぶさに眺めることができるときに、池池に宿る月をひとつずつみて、どうなるものであろうかという気持ちが、去らない。

視野は狭い

たとえば、隣の人には見えているのに、自分には見えないものが、たくさんある。ものを網羅しようとすると、全順序に近い順序がついていない限り、ほぼ確実に一つは落とす。何かすると、思ってもみなかったところから、思ってもみなかった意見がつくけれども、ついてから考えれば、それはもっともな意見である。見ようとしないものは、見えない。

こういうのは怠惰とは言わないだろう。怠惰でなくなったところで、見ようとするものは増えるかもしれないが、見ようとしないものに対する態度は特に変わらない。おそらく、自分が考えていることに一番興味があるあたりに、原因がある。そしてそこを直してしまうと、ぴらぴら週記のようなものが成り立つのかどうか、定かではない。しかも悪いことに、自分が考えていることに一番興味があって、最初に見つけた選択肢にやすやすと流れてしまう人は、○○原理主義の手下になりさがることが、多いにありそうだということである。もともと自分原理主義なのかもしれないが。

自分が考えていることに一番興味があるという傾向は、幼稚園児のころからそうであったようだ。ときどき、他の人は自分が考えていることをじかに知ることができないのだということに気づいて、愕然としていた。そしてよくわからなくなっていた。そこらへんのことは、いまでもあまりよくわからない。そういうわけだか、そこらへんのことを明示的に扱いたくなる。以上のようなことに、興味がある。

とぐろを巻いているとか、低回しているというか。こういう状態からずれたいときに、人の目からみたらどう見えるのか考えるというのも一つの手であるのかもしれない。ただ、これも苦手である。自分が何かしたことが、望まれているのか嫌がられているのか、想像することはあるけれども、外れることが多いので、あまり参考にしていない。

ためしにここまでの文章を他人っぽくみてみる。話題が発散して回収しきれていないことが目につく。たとえば、怠惰でないのはいいとして、それではいったいなんなのか。たとえば、ぴらぴら週記のようなものが成り立つのかわからないのはなぜであろうか。たとえば、この文章は望まれているのか嫌がられているのか。

最後の点はわからない。わからなくて、全然予想がつかないから、実在するような気分がしてくる。

いろいろ面白くなってきた

やはり、ごたごたしたことに巻き込まれるほうが、いろいろなものが実在感を帯びてくるので、たのしい。ただ、自分はごたごたが好きなんだけど、たぶん、ごたごたはきらいなひとのほうが多いと思うので、やっぱり、ひとりでごたごたできる研究が、いちばんいいのかもしれない。

信じるの謎

自分がなにかを信じるという状況がよくわからない。本気で信じているなら、自覚としては知っているということになってもよさそうだ。

とここまで書いたところで、たしかプラトンによると、知識はjustified, true beliefだったということを思い出し、justificationはないけどほんとのことだとわかっているというのを、信じるとよぶのだと思うと、ひとまず納得した。